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后续战略的几点说明

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这句话意义是到当时(就是南撤后),除了几座据点的城主留下戍守外,其他军队皆返国疗养。

『慶長三年蒲月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』「度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候

(大明の大軍が襲来したら余自ら馬廻衆を引き連れて渡海し打ち破り、大明まで進撃しよう。)

附原文:

第二,也是本书中我筹办采取的观点,秀吉如此乃是疲敌之计,详细论证见下:

日本軍を1599年に再度朝鮮に调派する号令を発します。(很较着,是打算两年后再度打击,以劳敌师)

我查了些质料,总结了以下两个能够的启事。

综上,熊仔以为稷山过后日军并未全线败退,而是计谋后撤(当时明军的第二波救兵尚未到达,对日军造不成威胁),以待疗养厥后年再度打击,如此持续下去,已达到疲敌的结果。

(全羅道を残さず悉く成敗し、忠清道や京畿道もなるべく攻略せよ。)

(それが済んだら仕置きの城の守りを固め、在番の城主を決めてそれ以外は帰国せよ。)

这句话是秀吉对将士的鼓励,意义是到时候他会亲身带领马廻众渡海作战,当然,以当时的身材状况来看,不过是嘴上说说罢了。

是以,本书接下来将会以此作为基调,接下来的章节如果呈现与此相干的事件,将不再多做解释,请大师了解。

不过恪守城池,轮换返国疗养倒是有些踪迹可寻,按照庆长二年仲春二十一日秀吉颁给立花宗茂的朱印状来看,确是出于疗摄生息的考虑。

第一,遵循而后的记录,日军乃是退到海边加固城池,以备来年再战。

『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』「来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり

详细根据便是上面所列的质料:

眼看着影岛海战就要结束了,接下来将是庆长之役的转折点“稷山之战”,虽说借用了汗青上的称呼,但详细颠末绝对分歧,大师就别急着百度了。

这条最首要,秀吉的作战目标是全罗道完整占据,忠清道和京畿道恰当攻占。稷山之战光阴军亦达到初期目标,随后仍向北进入京畿道竹山一带,也算是“恰当攻占”吧,以后才是雄师南撤,可见稷山之战对日军并未形成相称大的影响,也不存在所谓的败北南撤一说。

1、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。

『島津家文書』によると、総大将は石田三成と福島正則、増田長盛を充てることを計画していたよう

そんな中、秀吉は死去し、1599年の再出兵の計画は流れます。秀吉の死とは関係なく、日本軍と決戦を計画していた明軍は本土から大増援を得て、倭城攻略に動き出します。在番の日本軍の動きを抑えるため、三路に分かれて倭城に攻めかかりましたが、大敗します。(意义大抵是来年的反攻打算因为秀吉的死而流产,日军的出兵打算也因为明朝救兵的到达而被迫中断,而后便是蔚山、泗川、顺天等地的日军开端败退了。)

这条我不太佩服,正如汗青上所说,日军前脚撤退,明朝联军便当即构造雄师反击,蔚山之战,泗川之战,顺天之战便是证明,底子不会给日军留偶然候构筑工事。

汗青上,稷山之战过后日军全线后撤,有人不睬解,眼看着打到汉城了,为何临阵畏缩呢?

1、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。

明軍に大勝した日本軍は、築城を完成させ防衛体制を強化すると再度の出兵に備えて半数以上の軍勢が日本本土に帰還し2も達成されました。(此战过后,日军打算补葺城池,将半数兵力撤回本土)

ここで、慶長の役の作戦の胜利を見た秀吉は、新たに明本土から増援された明軍の撃滅を計画し、さらに明?朝鮮軍を疲弊させるべく、本土で歇息をとっていた

です。さらに、再出兵の準備のため兵糧の備蓄などを朝鮮の倭城に命じ、着々と準備を進めておりました。

1、天然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も大軍ニて罷出、於陣取者、各談合無用捨可令註進、御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事、案以内候之條、於由断者可爲越度事。

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